カイエ

雑感や仮想

諧謔

もう限界です。あなたたちが僕を踏みにじっていることを自覚しているのか、言われれば気づくのか、全く自覚していないのか知りませんが、私を不快にさせたり傷つけたりするのが趣味なあなたたちとはいい加減もう会いたくありません。これ以上会い続ければ、私があなたたちを殺すか、私が自殺するか、どちらかの結末となるでしょう。
お互いなんとか生きていくためには、もう会わないという選択が最良だと思います。はっきり言って私はあなたたちの性根は腐っていると思いますが、その2人から生まれた私もまた腐っています。
あなたたちが私を愛してくれていることは感じますが、あなたたちは私を私として愛してくれているのではなく、娘としてのみ愛しています。私のことは全く理解できていないのではないでしょうか。そうでなければ、あのように(そもそも思い当たりますか?数え切れない程あります)私を虐げるようなことはできないと思います。
私は今日あなたたちのあの趣味によって深く傷つけられ、ベルトで首を絞めてみました。電気を消した部屋の闇に包まれて、ベルトの紐を思いっきり引っ張り、自らの息の根を止めようとしたものの、紐を最大限引っ張っても呼吸に差し支えがなく、ただ、ぽろぽろと、涙がこぼれるだけでした。これを、諧謔と言うのでしょうか、必死に死のうと力を込めても、少しも苦しくならないのです。私は自らの力で死にたかったのです。首吊り自殺なんてものは紐に殺されてるようなものです。最後の大事な「自」死という要素を蔑ろにしてしまっている自殺への冒涜です。自分の力で紐を引っ張り、いくら苦しくなっても力を緩めることなく、意識が途切れるまで自ら死のうとすること、これが自殺であります。そして事切れたとき、自殺は、完成するのです。そんな自殺を試みたのに、ベルトの機能不全のために、苦しくなることすら出来なくて、私は泣きながら、ふふふ、と笑いました。諧謔というものが少しわかったような気がしました。
私たちの関係も諧謔ということにすればいいのでしょうか。愛し合い憎み合ったこれまでの日々は全部お遊戯会だったのです。私はたまに、政治が現実の出来事ではなくバラエティ番組だったらどれほど面白いだろうかなどと考えることがあります。必死に生きていた現実が実は仮想現実だったと知ったとき、人間は、ふふふ、なあんだ、と笑うことができるでしょう。
私は一生あなたたちを恨み続けるでしょうが、私は明日から違う現実を生きるので、恨む対象は仮想現実のものとなります。そうなれば、私も少しは笑えると思います。今度は涙を流さずに、ふふふ、と笑えると思います。
では長くなりましたが、お互い見知らぬところでなんとか生きていきましょう。異なる現実でせいぜい生きていきましょう。さようなら。