カイエ

雑感や仮想

きおくのうみ

 彼女と初めて会ったのは4、5年前の初夏だった。浪人をして三流大学に入って、これからの大学生活にも人生にも期待できず、浮かれている人ごみの中を怪訝な顔で歩いていた時、彼女もそんな顔で歩いていた。ただ彼女のほうが肌が白かったから、幾分目の下のくまが目立っていて、瞳はそれ以上に黒々として光がなかった。

 彼女はこの世界に生きていなかった。彼女はきおくのうみを泳いでいた。

 彼女と会って話したことがあるのは数回ほどで、彼女の深淵に触れることは到底できないけれど、僕は彼女を尊敬している。彼女は水の中を優雅に泳ぐように文章を書く。

 彼女は誰もいないきおくのうみを泳ぎ続けていて、僕はそこに光が降りそそぐことを望んでいる。そしてこの世界でも呼吸ができるようになることを望んでいる。