カイエ

雑感や仮想

根腐れ

流しにはひたした水が濁り始めた皿がいくつもあり、空気がこもりやすい部屋はじめじめとして黴がはえているところがある。あと何日かしたら放置された皿にも黴が点々とはえて、いよいよこの部屋は健康を損なっていくのだろう。当の家主はといえば、四、五年前、つまりこの部屋に住み始める前から疾うに腐りきっていて、歩きながら陰鬱な胞子を飛ばしているような、厄介な菌類のごとき存在であった。

彼は音楽を好む。彼がよく聴く音楽は、Elliott SmithSparklehorse、Bored Nothingなどで、これらアーティストはみな若くして自殺している。彼は彼らの夭折を、いつも音楽を好きになった後で知り、「ああ、また死を引き寄せてしまったか」と苦笑いする。彼らの音楽に漂っているのは虚無の空気であり、希死念慮、それと相反するかのように思われる死への恐怖である。彼や彼らは、死に呪われている。死をどうあがいても無視することができないのだ。死にたいという気持ちを持った人間は不健康だと非難され、生きていることが素晴らしいと思える心へと回復することが求められる。しかしながら、死に呪われた彼らは死から生へという健康な道を進むことができない。彼らは死にたいという気持ちがなくなるやいなや、死ぬのが恐ろしいという気持ちに支配される。この死への恐怖は、希死念慮よりも激しく、当人は発狂寸前まで行ってしまう。他でもないこの私が、絶対に、不可避に、死ななければならず、無とならなければならないこと、これに彼らは耐えられない。川上未映子に言わせれば、我々はゲームのプレイヤーではなくゲームの主人公であり、プレイヤーがゲームに飽きてゲームをシャットダウンしてしまえば、我々は死んでしまう、もはや殺されてしまうのだ。さて、呪われた彼らの、この気が狂いそうな死への恐怖は、希死念慮が不健康なものであるとするならば、健康なものなのだろうか。希死念慮と死への恐怖が相反するものであるならば、後者は健康なものかもしれないが、そうは思われないだろう。したがって、そもそも希死念慮と死の恐怖は相反するものではなくて、同種の、不健康な、死に呪われた人間の性である。死に呪われた彼らは、この闇から逃れることができず、どちらかといえば楽な方である希死念慮に心を委ねる。そのうち、彼らは自ら命を絶つ。

今日も家主はこの黴臭い部屋に籠りきり、SparklehorseのVivadixiesubmarinetransmissionplotを聴いている。彼はこの部屋という狭いフィールドで今日も虚しく主人公を演じている。