カイエ

雑感や仮想

paionia『白書』4.左右

 ミドルテンポやローテンポの曲が多い『白書』の中で、この曲は比較的速いテンポで三拍子を刻んでいく曲だ。そしてすべてのパートのプレイは激しさを帯び、緻密な計算のもとで冷静かつ大胆に音が駆けていくようである。

 なかでもドラムのプレイは、目の前でライブを見ているかのような感覚に陥らせる。このような速い曲にあっても、ドラムはタイム感も一つ一つの音もその音から立ち上がってくる熱も、すべてが洗練されている。

 この曲の歌詞の解釈は難儀である。

 

  左の余白は昨日 横目で見た右を

  とりあえず置いておいて 並列に苗を植えた

 

「左右」という曲名からもわかる通り、「左」と「右」、そしてその中間に位置する「私」という視点から語られているということは推測できるのだが、この歌詞の意味を考えてみるとどういうことかはっきりしない。そのため以下の解釈はあくまで筆者の解釈であって正確さを備えているかどうかはわからない。

 この世界の出来事はすべて「私」という視点に立脚して経験される。いくつもの出来事が「私」の前に立ち現れてきて、「私」が何もしなくとも、ただ生きているだけで時間は不可逆的に流れていくようだ(本当のところ不可逆的かどうかはわからないが)。生きていくうえでの「私」の行く末、目標、為すべきことがはっきりわかるまで、重い腰をあげられない人間もいるだろうし、その使命のようなものがわかっても、席をたち荒野に立ち尽くすと、先に生きてきた人間は随分遠くの方を歩いていて背中だけがぼんやりと見える。その遠くの人間の背中は小さく見えるのだが、それはあまりにも「私」の先を行っているからで、その小さな背中には羨望さえ覚える。「左」を見ても「右」を見ても、「私」の生きる時間には雑音が紛れ込む。その雑音は勿論、ノイズばかりではないのだが、脇目もふらず一心不乱に自分のやるべきことに取り組むにはどうしても気を散らせる。そんな左右に広がる様々なものを「とりあえず置いておいて」、「並列に苗を植えた」。並列に苗を植える作業というと田植えだろうか。社会や街といった喧騒から逃れた田舎の山奥の村で、広大な田んぼにひとり苗を植える人が浮かぶ。孤高に生きる人間の姿は美しいが、街で生きる人間は他者を排除することがどうしてもできず、ひとり苗を植えることができない。

 

  左に置いた君が 横目で見た右を

  少しだけ笑う顔を 僕は見れるだろうか

 

「僕」の左側に「君」がいて、「僕」はその地点から「君」を見ていて、「君」は右、つまり「僕」の方を向く。少しだけ笑う「君」の顔を見たいと思う「僕」は、自らの生き様を選び取るにあたって、「君」の存在を無視することができない。孤高に生き、為すべきことを為すという志と他者の幸福を望む心との狭間で葛藤しているうちにも、どんどん時間は過ぎ去り、気づくと年をいくつもとっていた。歌の最終部の「時間だけが経った」という叫びは、それまでの人生で経験した悲しみや苦しみがいつまでもなくならずいまだ重く心に堆積しているような切実さを感じさせる。他者を切り捨てなければいけないような場面は人生に必ず訪れるだろう。しかし、切り捨てるか切り捨てないかはその人の選択にやはりゆだねられている。その後すぐに「知らん顔は嫌だ」と結ばれることから、「僕」は他者の痛みを切り捨てず、共に生きていく道を選んだのだろうか。

 孤独と孤高は違うと誰かが言った。何が善いか悪いかもない。すべては選択だ。ただ、誰かと共に生きていくことで生まれる音楽に強い力があることを信じたい。