鏡台
使った皿をすぐに洗う。そういう些細なことができるか否かということが、精神状態の指標になる人間もいる。
寝台の舟。青い船。林檎の寝台。
睡眠を妨害するあらゆるものに苛立つ。手の指の表に刻まれた皺の深さを小さい頃から隠していた。皺が目立たないように指を常に曲げていることが習慣化されたせいで、手のひらをまっすぐに伸ばしていることが難しい。
刻まれた皺の数が、苦労に比例することはない。
水分のない手先の襞が、誰かの肌に触れることはない。
貧しさ
簡単に裏返る好悪。丹念に繋ぎたい脳を。
俺は裏切りの中にいる。シャチは群れをなしている。
なぜ哲学者は身体を問題にするばかりで骨を問題にしないのか。
身体よりも骨の方が最後まで残る。
ゴミは道端に捨てないのに煙草の吸殻を捨て黒いサンダルで火を消し損ねたヤンキー。
ようやく立てたくらいの子供のそばで煙草を吸うアジア人の親。
どこまでも甘えている。寛容さと自由。
怒りの矛先を外に向けるのか、内に向けるのか。
スクールキルがこの世の真実ではないのか。
paionia『白書』5.正直者はすぐに死ぬ
金曜の夜の東京の電車内は地獄の様相を見せる。泥酔し今にも死にそうなサラリーマンがやっとのことで吊革につかまり、ともすれば嘔吐し、それを怪訝な目で眺めるだけで助けようとはしない人々を見る私もまた、傍観者の一人だ。
大の大人なんだから自己責任でしっかりしろよと思う反面、もしかしたら悪い奴につかまって飲まされたのかもしれないし、泥酔しなければならないような人生の苦しみを抱えているのかもしれない。そういう想像力を持とうと思ってみても、この街は本質的に冷たい。東京は一人で生きていく場所だ。そう思う人間もまた冷たい。
福島から東京という街に移り住み、そこで10年以上音楽を紡いできたpaioniaにとって、この街は歌う場所であり、生きる場所である。
正直で嘘がなく、過度なまでに愚直に生き歌うpaioniaの音楽は、すぐに死ぬのだろうか。これからも生き続けるのだろうか。
こういう音楽が、生き様が、冷たい街の中で誰かにとっての大切な支えとなることを願ってやまない。そして太く長く生きることもできるということを、彼らに証明してほしい。
夏物語
以前はとても好きだった作家の長編小説。彼女の筆致で描かれる、繊細鋭敏な心象風景。呪いかのようにのしかかる哲学的問い。そして何よりも、なぜ創造しなければ無であったものを創造するのか、という生殖への懐疑。これこそが、私が彼女の小説、そして彼女自身に惹かれる理由であったと思う。
しかし彼女は結局子供を産み、フェミニストとして公に立ち、自分だけの内観の世界から、文字通り世界へと羽ばたいていこうとしている。
正直言って、長編ということもあるのか文体は緩慢で、下手な比喩が目立ち、冗長な小説だと感じた。最大の見せ場は夏子と善百合子との問答、というよりかは善百合子の一方的なアンチナタリズム語りであり、そこ以外はひときわいいところがあるわけでもない。
「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」
という言葉で終わらせないでそこでもっと深く潜ることができたら、潜らせてくれたならもっと面白かっただろうと思う。
この物語には、人が生まれて生きて、そしていなくなることの、すべてはなかった。
存在の起源
エスカレーターに乗りながら階下を見下ろすと、上がっていくにつれて小さくなっていく、幼子の寝顔があった。その幼子は、母親の手で頭と尻を支えられながら、何も怖いものがないように安堵の表情で眠っている。
安堵する、ということがどういうことか私にはわからない。少なくとも物心ついてからは、常に何かに怯え、緊張し、道化を演じ、落ち着いているかのように見せかけて、本当は人差し指でちょんと突かれれば崩れてしまう程の、脆い均衡の中にあった。
まだ赤ん坊だった頃、私は母の腕の中であのような表情を見せていたのだろうか。覚えていないだけで、天使にもおもえる無垢な光をその顔に浮かべていたのだうか。
私は子供を安堵させられる親になる自信がない。その時点で親になる資格がない。
私は反出生主義者ではない。だが論理的に考えると彼らの考えは正しいと思う。
命を大切にと言う割に、人は簡単に新たな命を創造する。
その母親の手は、美しくみえたが。
蛍灯
私あんたのことを思い出すばかりで さみしい灯りをじっと眺めてたわ
私あんたのことを甘やかすばかりで 大事なことはずっと隠してたわ
優しさだけが正しいなんて言われなくてもわかっているわ
私あんたのことが憎らしいばかりで 冷たい体をじっと揺らしてたわ
私あんたのことが愛おしいばかりで すべてを捨てる覚悟があるわ
心の奥でぶつかり合って傷つけ合うのも悪くないわね
私あんたのことを思い出すばかりで さみしい灯りをじっと眺めてたわ
私あんたのことを甘やかすばかりで 本気であんたを愛せなかったのね